あなたの目の前の机に空き缶を1つ置いてください。あなたには、空き缶が1つ見えます。当たり前。
でも、1分前のその場所には、空き缶はありませんでした。
仮に、
あくまで仮に、
あなたの横を走り去っていく人が、ふと同じ机の上を見たときに、
なぜか、その人からは、あなたが空き缶を置く前の時刻の机が見えちゃったとしましょう。
その人には空き缶は見えません。
う〜ん。一種の視覚的なタイムマシン現象ですね。
もちろん、現実にはそんなことはないかも知れませんが、この例からわかるのは、
空き缶をおいたその場所は、空間的には、1つの点ですが、時間の概念を取り入れると、時間軸方向に直線的にのびた線だということです。
本当は線なのに、
なぜか、人間には、ある特定の点しか見えないのです。しかもその見える場所は、時間の進む方向に勝手に移動していくと。
(なんで人間の認識は、勝手に時間にそって進んでいくの? というのは、科学というよりは、哲学の問題なので、おいといてね。)
ちょっと違う見方をしましょう。金太郎飴。
飴ののびる方向を時間軸だとしましょう。
それと直角にすぱっと切ったのが、ある特定時刻の状態。
ここで、暗黙のうちに、「同一時刻」の概念が登場したことに気づいたでしょうか?
金太郎さんの右目と左目と鼻と口は、それぞれ、独立した時間軸をもっています。
直角に切った切り口のそれぞれの場所は、「同じ時刻」の点だと仮定しています。
でもね。。。。
先ほどの視覚的なタイムマシン現象の応用で、
私と通りすがりの人は、左目の部分は、私と同じ時刻の場所が見えるけど、右目の部分は、視覚的なタイムマシン現象がおきて、とおりすがりの人には、もうちょっと手前の、つまり、私にとっては過去の場所が見えるとします。
こんな感じ。
左目 ↓ ----------------------------------------------- /| / | / | ---------------------------------------------- ↑ 右目
私には、縦棒の切り口が見えるけど、通りすがりの人には、斜めの切り口が見えるのです。
お。
私には、綺麗な丸顔の金太郎さんが見えるのに、通りすがりの人には、横に伸びた金太郎さんの顔が見えます。
物質の長さが変化しました。
いや、実際には何も変化してないのだけど、視覚的タイムマシン現象で、変化したように見えるのです。
ここで、立場を変えてみてみましょう。
私にとっては、私の見え方が正常で、通りすがりの人に視覚的タイムマシン現象が起きていると、思い込んでいます。
でも、通りすがりの人は、違うことを考えているかもしれません。彼から見える世界が正常で、私の方に視覚的タイムマシン現象が発生していると思っているに違いありません。
私にとっては、縦の切り口が、「同一時刻」の点の集合で、
通りすがりの人にとっては、斜めの切り口が、「同一時刻」の点の集合。
どっちが正しい?
どちらも正しいです。
万人に共通の「同一時刻」なんてのは、最初っから無くて、そもそも、人によって、どの切り口が見えるかはばらばらで、
たまたま、その人にとって見える切り口が、「その人にとっての同一時刻」の集合なのです。
という事をアインシュタイン先生はおっしゃいました。
したがって、見る人によって、物質の長さが違ったりしてもいいんだよと。
もう1つ、寿命の話もしてみましょう。
左目 ↓ -------> 認識の進む方向 ---------------------------- /| /| / | / | / | / | ---------------------------- ↑ 右目
冒頭の哲学的話題のように、なぜか、人間の認識はある方向に進んで行きます。
金太郎飴の見える切り口が、上図のように右に進んでいって、私から見える金太郎飴は、ついに右端にたどりつきました。
もう金太郎はいません。金太郎飴の寿命はつきました。
でも、通りすがりのひとから見ると、まだ、ぎりぎり左目がなくなりかけているところで、ちゃんと金太郎の顔は見えています。
おぉ。金太郎はまだ生きている。金太郎の寿命がのびた。
さぁ。私と通りすがりの人で、論争してみましょう。
わたし「金太郎は死んだ。お前がみているのは、幻想だ。過去の金太郎を見ているだけだ。」
とおりすがり「いやいや、お前が勝手に未来の金太郎の姿を見ているだけだ。」
わたし「いやいや、お前は過去を見ている。お前の頭の中は、時間がゆっくり進んでいるに違いない。」
お。
そうなんです、人によって、時間の進み方が違うのです。
ちょっと見方を変えましょうか。
同じ人からみたとしても、物によって、時間の進み方が違う可能性はないでしょうか?
私が、机の上においてある金太郎飴を見ると、
左目 ↓ -------> 認識の進む方向 ---------------------------- | | | | | | ---------------------------- ↑ 右目
こう見えて、
その横で、コロコロ転がっている金太郎飴をみると、そっちに対しては視覚的タイムマシン現象が発生して、
左目 ↓ -------> 認識の進む方向 ---------------------------- / / / / / / ---------------------------- ↑ 右目
こう見えたとします。
つまり、止まっている金太郎飴が死んだ時、コロコロ金太郎飴はまだ生きている。
お。
寿命がのびた。
そうなんです。
光速度で宇宙旅行すると寿命がのびるとかいいますが、本当は寿命がのびるのではなくて、
光速度で宇宙旅行する金太郎飴に対しては、まわりで見ている人には、かならず視覚的タイムマシン現象が発生して、過去の姿が見えるようになるのです。
本当は、金太郎飴はもう死んでいるのに、みんな過去の姿をみるから、金太郎飴の寿命がのびたように考えるのです。
えぇ。
放射性元素の半減期ってありますよね。半分になる時間。
その放射性元素を光速度でぶっとばすと、半減期がのびるのですよ。本当に。
ちなみに、
さっきから、人によってものの見え方が違うんだと言ってますが、
じゃあ、具体的にどんな風に見え方が変わるのかという、見え方の変換公式を数学的にきちんと確立して、いろんな物理現象や物理法則がその変換公式に矛盾しないということを示したのが、いわゆる「特殊相対性理論」なわけです。
さいごに、決定論の話。
こういう議論をつみかさねると、必ず陥るのが、
「Aさんから見ると、XXXXXという結果になるのに、Bさんから見ると、YYYYYという結果になる。XXXXXとYYYYYは両立しない。矛盾だ。だから相対性理論はまちがっている。」
さきほどの金太郎飴の例を思い出してください。
金太郎飴の一生涯は、本当は、さいしょから決まっているのです。人は、その切り口をはしから順に見ていくだけ。
ただ、どの切り口で見るかがちがうので、ちがう金太郎の姿が見えるだけ。
宇宙のすべての出来事は、さいしょからすべて決まっているのです。
人間はそれを端から順にみていくだけ。人によって、見える切り口がちがうので、人によって物の長さがちがっていたり、寿命がちがっていたりするけど、それは見かけの問題。何も矛盾することはありません。
というのが、なにげに、相対性理論の前提。
ただ、あらかじめ決まっている宇宙のすべての出来事が、どういう原理で決まっていて、どういう計算をすれば、時間軸方向を含めた宇宙全体の形を導くことができるのか?
というのは、興味がありますよね。
「金太郎飴の顔の変化を理論的に計算するよ。」
というのが従来の物理学の発想で、
「棒状の金太郎飴全体の姿を一気に計算で導くよ。」
というのが、相対性理論っぽい、物理学の発想。
ちなみに、アインシュタイン先生は、もうひとつ大事なことを言いました。
(時間軸方向を含めた)宇宙全体の形は、物質の重力によって決まるのだ。
これが一般相対性理論。
ほんじゃあね〜。