生成 AI の流行と共に、「自分の仕事が AI に奪われるのではないか」という心理的不安に端を発する「IT エンジニアの価値」をめぐる議論が散見される様になりました。ここでいう価値とは、「仕事が奪われるのではないか」という背景からもわかるように、「報酬に換算される金銭価値(=市場価値)」であるのは間違いないでしょう。このような議論の妥当性は否定しませんが、市場価値だけが IT エンジニアの価値、あるいは、人間そのものの価値であるかのような議論が多くて、違和感を感じることがあります。AI と「人間の価値」にまつわる議論では、市場価値の話と個人としての価値の違いを注意深く意識する必要がありそうです。「個人としての価値」というと曖昧ですが、端的には、「俺/私はこれが好きなんだ」という個人的な嗜好、あるいは、「俺/私はこれがやりたいんだ」という個人的な欲望のことだと考えればよいでしょう。
少し余談になりますが、商業主義に強く影響された、「IT エンジニアの価値=市場価値」という理解(思い込み)が浸透した背景には、転職ビジネスの広報戦略があるのは間違いないでしょう。このような刷り込みへの対抗として、IT 技術を市場価値のない用途に利用する「技術の無駄遣い」というユーモアを楽しむ文化も生まれてきました。ただその中で、商業主義に対抗するユーモアだったものが、商業主義の世界から「その創造性には市場価値がある」と目をつけられて、不本意な形で商業主義に利用されてしまうケースや、そのような潮流をさらに逆手にとって、「市場価値に対抗するユーモアとしての技術の無駄遣い」を市場価値を高める目的でアピールしていると思わせるような倒錯したケースなど、商業主義の影響力の恐ろしさを感じさせられることもありました。
そして、最近、特に市場価値と個人の価値が錯綜していると感じるのが、AI でコードを生成する「バイブコーディング」に関する議論です。生成 AI が広がる以前のソフトウェア開発では、コードを書く人間はコードの内容を理解していることが大前提で、いわゆる「コピペコード」を問題視する議論も頻繁に見られました。言い換えると、コードを理解することは、コードを生み出すことの大前提であり、生み出されたコードの市場価値からコードを理解する能力の市場価値が換算される構造がありました。荒っぽくいうと、「コードの市場価値」=「コードを書く能力の市場価値」=「コードを理解できる能力の市場価値」という明確な関係がありました。ところが、バイブコーディングを利用すれば、コードを理解せずとも市場価値を持つコードが生成できるようになり、上記の関係が成り立たなくなった結果、「コードを理解する能力は必要なのか」「コードを書く能力に市場価値はなくなった」といった議論が散見されるようになりました。
もちろん、バイブコーディングだけで生成したコードの実際の市場価値については、より深い議論が求められると思いますが、その点はいったん後回しにします。ここでは、視点を変えて、市場価値とは別の「俺/私はそれがしたいんだ」という純粋な欲望(欲求という言葉の方が合うかもしれませんが、あえて欲望と表現しておきます)の側面を考えてみます。
以前より、IT エンジニアの中には、「新しい技術を学んで理解する」「新しい技術を使える様になる」ことに対する強い欲望を持つ人々が一定の割合でいました。その欲望に従うことが、結果としてその人の市場価値を高めるという効果はありますが、本人の中では、おそらくは、市場価値は副産物にすぎなくて、技術に対する興味の方が強く先行していたものと推察されます。ただ、IT 技術と言ってもさまざまな分野があり、ソフトウェア開発については、少し込み入った状況がある気がします。Ajax に代表されるフロントエンド技術が広がりはじめた当初、ソフトウェア開発に対する欲望という観点では、旧来の IT エンジニアの「理解したい」という欲望ではなく、新しい技術を使って何か動くものを「作りたい」という欲望からソフトウェア開発を学ぶ人々の割合が増え始めた気がします。つまり、欲望に従ってソフトウェア技術を学ぶ人々の中には、理解への欲望と作ることへの欲望の比重のグラデーションがあるのでは、という仮説が立てられます。
そして、この比重の違いによって、バイブコーディングへの態度が変わるのではないでしょうか。「作りたい」を根源的な欲望とする開発者にとって、バイブコーディングの登場は、自分の欲望を満たしながら市場価値を持つものを生み出す道具という点で、欲望と市場価値の乖離を生み出すものでありません。一方、「理解したい」を根源的な欲望とする開発者にとっては、自分の欲望に従うことが副産物として市場価値を生み出すという、これまでの好循環が破壊されることになります。そのため、作りたいという欲望を強く持つ人々は、バイブコーディングを肯定的に捉えて、生成されたコードの内容を理解することの価値を低く見積もります。一方、理解したいという欲望を強く持つ人々は、バイブコーディングを否定的に捉えて、生成されたコードの内容を理解することの重要性を強調します。
もちろん、個人の欲望は別にして、バイブコーディングの有用性や生成されたコードを理解することの意義を客観的に見極めていくことは大切ですが、人間の活動が欲望に支えられている以上、自身の欲望を度外視した議論を展開するのは難しいものです。特に、欲望によるバイアスがあるにも関わらず、そんなものは存在しない振りをして表面的に客観的な議論をするのは不健全な気がします。ではなぜ、そのような不健全な議論が起きるかというと、ここにも商業主義の悪影響が見え隠れします。つまり、個人の欲望ではなく、(商業主義が称揚する)客観的な市場価値に依拠した議論こそがあるべき議論だという思い込みです。もちろんそのような議論も必要ですが、少なくとも、ソフトウェア開発に関わる人間自身が議論する際は、「市場価値がどうであろうと俺/私はこれがしたいんだ」という個人の欲望を堂々と表明した上で、個人の価値観としてバイブコーディングをどう捉えるかという議論がもっと増えてもいい気がします。それがあった上ではじめて、欲望のバイアスを排除した客観的な議論が可能になるのではないでしょうか。IT 業界に特化した話ではない気もしますが、市場価値(金銭価値)に無理やり結びつけることなく、純粋に個人の欲望に依拠した議論がもっと健全にできる文化が生まれてほしい気がしています。
なお、最後に補足しておくと、私自身は圧倒的に「理解したい」という欲望に駆られて IT 業界を生き抜いてきました。何冊かの技術書を執筆したり、IT 技術の講義を行なったりしてきましたが、表面的には理解することの潜在的な価値を訴求しながらも、根底には純粋に理解する喜びをもっと共有したいという気持ちがあり、それが活動の原動力でした。そういうこともあって、最近のバイブコーディングに関する議論には、なかなか積極的に関わる気持ちが生まれません。「⚪︎千万円のシステムが⚪︎万円で作れた」みたいな市場価値の話はさておいて、まずは、「俺/私は〇〇がしたいんだ。だから、バイブコーディングにはこう向き合いたいんだ」という欲望ベースの議論が増えると嬉しいです。